2012年12月29日土曜日

文句があるなら・・・

2012年がもうすぐ終わろうとしている。
今年最後のブログになるというのに、「文句があるなら・・・」という
ケンカ腰のタイトルはいかがなものか?と突っ込みながらも、
でも、やっぱりこれだなと思うので続けることにする。

夫がいいよと言っていた、大貫妙子さんの「One Fine Day」という
アルバムを聴いていた。一曲目には、「船出」という歌があり、
冬の冷たい空気の朝に似合うゆったりとしたいい曲だ。
作詞は、糸井重里さんと大貫妙子さんの二人が手掛けている。
作曲は大貫さん。
「大貫さんの歌は歌詞が少ないのがいいよね」と、夫は言った。

そう言われてみると、日本でよく売れているJ-Popなんかは、
ひとつのフレーズに、話言葉のようにたくさんの言葉を詰め込んでいて、
息継ぐ暇もないくらいだ。でも、そういう歌のほうが、日頃のたまりたまった
うっ憤を晴らせるのか、聴いていてスッキリするし、
カラオケなんかで歌ったら、盛り上がるよなーと思う。

ズブの素人が、カラオケで大貫妙子さんの歌ばかりをエンドレスで
歌ったとしたら、盛り上がりにかけるだろうし、なんだかまったりしすぎて、
周りの人をイライラさせるかもしれない。
「間奏長っ!テンポ遅っ!・・・まだ続くのかよ、オレ次の曲歌いたいんだけど」
というヤジが飛んできそうだ。


だが、しかしだ。そんなイラついたヤツらには、
「文句があるなら、オマエやってみろ!」と言ってやりたい。


歌ってみろよということじゃなくて、
「オマエこういう歌作ってみろよ」ということだ。
歌詞も短くてシンプルだし、なんか作れそうな気がするけれど、
おそらく作れないだろう。イチから作ろうとしてみて、
はじめて大変さや凄さがわかるかもしれない。


こういうことは、私たちの日常にもたくさん潜んでいる。


母さんや妻が作ってくれる、毎日の食事やお弁当なんかもそうだ。
会社の仕事や上司の仕事の進め方もそうだ。
政治家のやっている政治というのもそうだ。

もうちょっと手際よく、もうちょっと工夫して、
もうちょっと上手に、もうちょっと違う方向性で、
もうちょっと変えられないのかなぁ・・・・・・

何だかじれったくて、じっと見ていられなくて、
周りの人は、やきもきしてイロイロとヤジや文句を飛ばしたくなる。

気持ちはわかる!!
でも、その中心、その渦中にいる人からしてみれば、
時間やお金や能力といったたくさんの制約のなかで、
それでも一生懸命やっているということを忘れてはいけないだろう。
イチから自分ひとりでやってみて、はじめてその人の苦労や
当たり前の中に潜む凄さがわかるかもしれない。
継続の難しさというのも、痛感するかもしれない。

だから、自分が思う、こういうのが当たり前、こういうのが幸せ、
こういうのが正しいという意見や理想を、ただ一方的に
人に押し付けるのは、やはりちょっと違う。


今年もきっとたくさんの文句が生まれただろう。
その文句を、来年もそのまま持ちこして、
同じことを言いい続けていいのかどうか、
除夜の鐘の音とともに、
もう一度頭を冷やして考えてみてほしい。


文句があるなら、辞めちゃえば?
文句があるなら、そこを去れば?
文句があるなら、関係を切れば?

もし、それができないのであれば・・・
まずはその文句をひとまずどこか見えないところにしまっておいてくれ。
そして、オマエの意見を聞かせてほしいと言われるまで、
その文句を、相手に納得させるくらいまでに練り上げておいてほしい。

関係のない他人や身内に、文句や愚痴をいつまでも聴かせ続けるなんて、
はなはだ迷惑で失礼な話だ。聴かされている側も無駄に疲労する。

文句があるなら自分でやれ!
いいアイデアがあるなら、自分で動け!
人のふんどしで、いつまでも相撲をとってばかりじゃ、
やっぱりいろいろなことが変わっていかないし、おもしろさも半減するだろう。

小さなことから、まずは自分で!!
私も、そう自分に言い聞かせることにしよう。
そして、そういう一歩を踏み出した勇気ある人を、
しっかり身守り、応援したいと思う。

年末には、文芸雑誌「アフリカ」用に初めての短い小説を書きました。
小説なんて習ったことはないけれど、でもやりたいからやってみた。
編集者からのOKがでれば、来年1月号に掲載されるかな・・・・・・?

一歩、一歩、シンプルに、言い訳せずにただやるだけ。
私もときどき「船出」を聴いて、不安になったらこの歌詞の中にあるように
「君はどこまでも行ける」と自分に言い聞かせることにします。


今年も一年間、お世話になりました。
皆さんも、よいお年をお迎えください。


2012年12月29日


2012年12月20日木曜日

世界のムードはそれを許さないらしいので黙っていた

私は人類がついに月面に着陸した時ナーンも感動しなかった。それはテレビにかじりついてホーホーと感心したが、何か人間はしてはいけない事をしているのではないかと思い、それを口にしたいと思った。しかし、世界のムードはそれを許さないらしいので黙っていた。

佐野洋子 「しみじみ」より(新潮文庫「覚えていない」収録)


いまだかつて経験したことがないくらいの喜びと喪失感をわずか数ヶ月の間に一気に経験してしまった私は、今年の秋頃、何も手がつかないくらい疲れきってしまった。私は、ネットからも、人からも、うーーんと遠ざかり、耳をふさいでふて寝したい気分だった。そして、何かの救いを求めるかのごとく、佐野洋子のエッセイをむさぼり読んだ。


きっかけは、私が主催しているMichi-Kusaのサイトのリレーエッセイのコーナーで、文芸雑誌「アフリカ」の仲間である、髙城青さんが若かりし頃に夢中になって読んで影響を受けた本として、佐野洋子のエッセイ本をあげていたからだ。

佐野洋子は、「100万回生きたねこ」の絵本作家として有名で、私も名前と作品は知っていたのだが、エッセイを読んだことはなかった。

先に引用した文章は、まだまだ甘口のほうなのだが、彼女をどんな人と紹介するならば、世間の風潮などおかまいなしという感じで、ガンガン本音で斬り込み、しかも、ガハハと腹を抱えて笑わせてくれる、頼もしく、恐ろしく無邪気で、破天荒なセンパイ女性というところだろうか。


私は佐野洋子のおかげで、どうにか正気というか笑気を取り戻すことができた。悩んだり、悲しんだり、泣いたりしているのがバカらしくなったのだ。


ということで、ようやく重い腰?筆?を上げて、かなり久しぶりにブログを書くことにした。なにやら明日12月21日は、マヤ暦が終わる日だそうですね。明日で世界が終わるとしたら、何をしようか?といろいろ考えた末に、今日私がしたことといえば・・・


ずっと食べたかったパン屋さんに行こう!
という食いしん坊な小さな冒険だった。


横浜から電車を乗り継ぎ、はじめて降り立ったのは小田急線「豪徳寺」駅。5月に行われた私たちの結婚パーティーのときに、お友達が持ちよってくれた料理の中にとても美味しいいパンがあったそうだが、新婦の私は遠慮しているうちにうっかり食べそびれてしまったのだ。それが心残りでずっと行きたいと思って、忙しさと遠さにかまけて、のびのびになってしまっていた。

お店の名前は、「uneclef(ユヌクレ)」。
昔ながらの小さな商店街の道なりに、ひっそりとある小さなパン屋カフェだ。目の前には緑道があって、ガラス越しからは平和そうな顔をして帰宅する学校帰りの小学生や、杖をつきながらよぼよぼ歩くおじいちゃんの姿が見えた。

私はカフェで温かいカフェオレをすすり、ただただボーッとそれを眺めていた。もちろんテーブルには、佐野洋子の本も供えていた。私を救ってくれた佐野さんにも、このうれしい時間を共有してもらいたくて。

今日は、ただただパン屋に行って好きなパンをいくつか帰れば満足という旅。渋谷でデパートなどにも寄らずに、ただパンを買って帰ってきた。明日は冬至なので、お風呂に入れるユズだけスーパーで買い足した。すごく満足な一日だった。そして、何より明日が来ることをワクワクしている自分がうれしい。


選挙も終わり、落胆し、なにやら来年も混沌とした世の中になりそうだけど、それでもいろんなことは、良くも悪くも前に進んでいることをまずは喜んでもいいのかもしれない。

そして、私は私で、自分の欲求に従って前へ進むのみだ。
言いたいことを言い、書きたいことを書き、
食べたい物を食べ、行きたいところへ行き、会いたい人に会いに行く。

これは簡単のようだが、簡単ではない。言い訳をすれば、やらなくたっていいし。本当の欲求以外のところへそれていくことのほうが、本来はラクなのだから。


世界のムードはそれを許さないらしいかもしれないが、
私は、そういう自分の欲求の原点に立ち戻ってみたい。