2013年4月30日火曜日

Michi-Kusa公式サイト 4月のリレーエッセイに「遅咲きの青春」を寄稿しました!

横浜を中心にカフェイベントやトークショーを展開する「Michi-Kusa」公式サイトでは、ミチクサ1号(芦原陽子)&2号(荒澤文香)を筆頭に、縁のあるゲストをお迎えして、隔月でリレー形式のエッセイをお届けしています。
 
4月のテーマは、「小さな春みつけた!」です。芦原陽子は、最終ランナーで登場。去年の春からハマッている電車の旅について綴りました。ぜひご覧ください。

◆ Michi-Kusaリレーエッセイ 4月 ◆
 
▽第四走者: 芦原陽子(ミチクサ1号)
「遅咲きの青春」4月29日更新



4月のリレーエッセイは、横浜を拠点に活躍されている古書店店主の稲垣 篤哉さんと染織家の森 文香さんが登場してくださいました。こちらもあわせてご覧ください。
 
▽第一走者:荒澤文香(ミチクサ2号)
「春の音」4月8日更新
http://michi-kusa.net/essay/archives/175

▽第二走者:稲垣 篤哉 (古書店主)
「夜明け桜」4月15日更新
http://michi-kusa.net/essay/archives/178

▽第三走者:森 文香 (染織家)
「光さす季節に」4月20日更新
http://michi-kusa.net/essay/archives/181

2013年4月29日月曜日

生と死の狭間の季節に


季節は4月から足早に5月へ移ろおうとしている。道草の家の庭には、ガクアジサイの茎がぐんぐん伸び、太陽に向かって背伸びをするように、若々しい緑の葉を広げ輝やかせている。

葉の先端をかきわけるようにのぞき見ると、花を咲かせる時期を今か今かと待ちわびているかのように、たくさんのつぼみがスタンバイしていた。じめじめとしたうっとおしい雨も、アジサイにとっては恵みの雨であり、道行く人の目を美しい花で独占できる、うきうきする季節なのだろう。

引っ越してきたばかりの去年は、手入れが行き届かず、たった一輪しか咲かなかったガクアジサイ。「花が終わる時期に切り詰めておかないと、来年咲かないよ」と義父に言われ、その言葉通りに、夏が始まる前に、青々とした葉にバッサバッサと私はハサミを入れた。

こんなに切ってしまって大丈夫だろうか?少しビクビクしながらも、ハサミを入れていく作業は心地よかった。葉がほとんどなくなると、真新しい風が吹きぬけていくのがわかった。

ハサミを入れられ、死に落ちていったたくさんの葉っぱの分だけ、ガクアジサイは、今年、きれいな花をたくさん咲かせるだろう。ガクアジサイの若々しいつぼみを見ながら、


生と死は、表と裏であり、
両者には優劣はなく、どちらが良い悪いと、
簡単に片づけられるものではない
とあらためて考えさせられた。

また、生と死は、吸って、吐いてという呼吸にも似て、
二つがひとつながりで、どちらが先か後かということも言えない。

老いたり病んだりした後に訪れる自然死と、
自ら死を選ぶ自死(自殺)も、どちらが良い悪いと、
簡単に言葉で片づけられるものではない。

死に方や死んだ理由は、どうであれ、
その人がどう生きたのかを知ることのほうがはるかに大事だ。
死んだように長々と生きた人と、
短くとも生き生きと自分を活かし切って生きた人では、
同じ一年が大きく違うだろう。


ひとつの死と直面することで、残された家族や友人や、伝え聞いたまったく関係のなかった人々でさえ、どう生きていくべきか、そもそも、自分はちゃんと生きているのだろうかと自問するきっかけをもらう。そして、当たり前の命などないこと、命の尊さについて、立ち止まって考えさせられる。自己中心的で、暴走しがちな人間には、時々そうする必要があって、死というものに直面させられるのかもしれない。

生と死は、移ろっていく自然の流れの一部でしかなく、
移ろいたい(死にたい)という思いは、
自然の流れなのだから、
一時的には止められたとしても、
究極的には誰にも止められないだろう。

人が生の方向へ移ろおうとも、死の方向へ移ろおうとも本来自由なのだと思う。それを周りの人が勝手に、「良い」「悪い」と意味づけして騒いでいるに過ぎない。毎年自殺者が増えた減ったで一喜一憂しているのも、おかしな話だ。だから私は、生も死も、人の数だけあることを認め、移ろうままに、あるがままに、受け止めていくしかないと思っている。


私は、去年一輪だけ咲いたガクアジサイの花を、あえて切らなかった。ちゃんと切れば、その茎から来年また新しい美しい花が咲くことはわかっていたのだが、どうしてもできなかった。

それは、ガクアジサイがいつまで生きているのか、いつから死んだのか、その境目が、私にはわからなかったからだ。正確には、一年経った今でもわからないままだ。これは、自死遺族の気持ちと似ているかもしれない。

花をほとんど落とし、色も褪せ、風雨にさらされ、それでもしぶとく残ったガクアジサイ。魂はもうとっくに抜け出てしまったのかもしれないが、ドライフラワーになり、化石のようになっても、後世まで生き続けたいと、望んでいるようにも思えてくる。

でも、これは私の想像でしかなく、言葉を持たないガクアジサイと私は、ずっと平行線で交わることはないだろう。ガクアジサイの意思は、ずっとわからないままだ。


なので、勝手に朽ち落ちていくなら、それもよし、
残っていたいならそれもよしと、
ただ静かに見守ることにした。


生きることの意味や、死の意味を
いつまでも、あれこれ考え続けるのは勝手だが、
私たちが生きていられる時間は限られているので、
考えてばかりで、時間を無駄にしてしまっては本末転倒だ。

だから、すべてをわかろうとしなくてもいいし、
わからないままにしておいてもいいのだ、
ということを、私たちは覚えておく必要があるだろう。
それが、健やかに生きるために許された、知恵のひとつなのだと。





2013年4月2日火曜日

春の嵐の後に、奇跡の神戸牛!


3月は、仕事面でも、健康面でも、トラブル続きで荒れに荒れた道草家。
相手に非があろうと、理不尽であろうと、自分が蒔いてしまった種だから、
責任をもって自分で刈り取るしかないと腹をくくって、
最後は、夫婦でタッグを組んでもろもろの後始末をしました。

長期にわたって、こんがらがってもつれてしまった糸は、
ほぐすよりも、いっそ怒り狂って燃やしてしまったほうが
早いんじゃないかと思ったりもするけれど、

相手の言い分と、自分の言い分を聞いた上で、
なんとかゴール(完結)するために、今何をすべきかを整理して、
忍耐強くこんがらがった部分をほぐして、お互いが納得するカタチに
少しでも近づける努力をする必要がありました。

自分も相手も大切にしながら、自分の意見、考え、 気持ちを率直に、
正直に、その場にふさわしく表現する、コミュニケーションスキルのことを
「アサーション」というそうで、まさに、アサーション能力を試される事件に
遭遇したといっていいでしょう。いろいろ啓発本も出ているらしいから、
私も今度読んでみようかな。

私は、わりと営業向きらしく、アサーションがもともと得意なほうなので、
なんとか第三者的立場で、修羅場を丸く収めることができましたが、
いやはやなんとも骨の折れる仕事でした。

そうそう、よくありがちな日本人のパターンとして、
自分に非がないのに、自分より立場が強い相手にペコペコ謝りすぎる
という問題点があります。私は相手が誰であろうと、無意味に謝るのは
好きじゃないから、絶対謝らないけど!!(笑)

でも、こうやったらこの問題は回避できたという、反省点を見つけて
相手と共有して、努力が足りなかった部分に関しては、
素直に謝るということは、もちろんやります。

春の嵐とはいうけれど、いやはや試練の春でした。
道草家にとっては、かなりの痛手でしたが、
何が必要で、何がもういらないかがはっきりとわかったので、
いろいろと良い勉強になりました。

どん底まで沈んで、希望がないように思われた道草家に、
ある方からドドーンと神戸牛が贈られて来ました。

「肉でも食べて、元気出しなよ!」という意味で贈ってくれた
そうですが、いやはやなんとも、粋なことを!!

昨夜は、ありがたや~~と、神戸牛に手を合わせてから
夫婦仲良く、ジュージュー焼肉でいただきました。
骨身にしみる旨さでした。

4月からは、気持ちも新たに、またヨチヨチ歩き出そうと思います。
転んでも、何度でも仕切り直せばいんだもんね。

親身にアドバイスしてくれたり、温かい励ましの言葉をかけてくれた
皆さま、ありがとうございました。