2013年4月29日月曜日
生と死の狭間の季節に
季節は4月から足早に5月へ移ろおうとしている。道草の家の庭には、ガクアジサイの茎がぐんぐん伸び、太陽に向かって背伸びをするように、若々しい緑の葉を広げ輝やかせている。
葉の先端をかきわけるようにのぞき見ると、花を咲かせる時期を今か今かと待ちわびているかのように、たくさんのつぼみがスタンバイしていた。じめじめとしたうっとおしい雨も、アジサイにとっては恵みの雨であり、道行く人の目を美しい花で独占できる、うきうきする季節なのだろう。
引っ越してきたばかりの去年は、手入れが行き届かず、たった一輪しか咲かなかったガクアジサイ。「花が終わる時期に切り詰めておかないと、来年咲かないよ」と義父に言われ、その言葉通りに、夏が始まる前に、青々とした葉にバッサバッサと私はハサミを入れた。
こんなに切ってしまって大丈夫だろうか?少しビクビクしながらも、ハサミを入れていく作業は心地よかった。葉がほとんどなくなると、真新しい風が吹きぬけていくのがわかった。
ハサミを入れられ、死に落ちていったたくさんの葉っぱの分だけ、ガクアジサイは、今年、きれいな花をたくさん咲かせるだろう。ガクアジサイの若々しいつぼみを見ながら、
生と死は、表と裏であり、
両者には優劣はなく、どちらが良い悪いと、
簡単に片づけられるものではない
とあらためて考えさせられた。
また、生と死は、吸って、吐いてという呼吸にも似て、
二つがひとつながりで、どちらが先か後かということも言えない。
老いたり病んだりした後に訪れる自然死と、
自ら死を選ぶ自死(自殺)も、どちらが良い悪いと、
簡単に言葉で片づけられるものではない。
死に方や死んだ理由は、どうであれ、
その人がどう生きたのかを知ることのほうがはるかに大事だ。
死んだように長々と生きた人と、
短くとも生き生きと自分を活かし切って生きた人では、
同じ一年が大きく違うだろう。
ひとつの死と直面することで、残された家族や友人や、伝え聞いたまったく関係のなかった人々でさえ、どう生きていくべきか、そもそも、自分はちゃんと生きているのだろうかと自問するきっかけをもらう。そして、当たり前の命などないこと、命の尊さについて、立ち止まって考えさせられる。自己中心的で、暴走しがちな人間には、時々そうする必要があって、死というものに直面させられるのかもしれない。
生と死は、移ろっていく自然の流れの一部でしかなく、
移ろいたい(死にたい)という思いは、
自然の流れなのだから、
一時的には止められたとしても、
究極的には誰にも止められないだろう。
人が生の方向へ移ろおうとも、死の方向へ移ろおうとも本来自由なのだと思う。それを周りの人が勝手に、「良い」「悪い」と意味づけして騒いでいるに過ぎない。毎年自殺者が増えた減ったで一喜一憂しているのも、おかしな話だ。だから私は、生も死も、人の数だけあることを認め、移ろうままに、あるがままに、受け止めていくしかないと思っている。
私は、去年一輪だけ咲いたガクアジサイの花を、あえて切らなかった。ちゃんと切れば、その茎から来年また新しい美しい花が咲くことはわかっていたのだが、どうしてもできなかった。
それは、ガクアジサイがいつまで生きているのか、いつから死んだのか、その境目が、私にはわからなかったからだ。正確には、一年経った今でもわからないままだ。これは、自死遺族の気持ちと似ているかもしれない。
花をほとんど落とし、色も褪せ、風雨にさらされ、それでもしぶとく残ったガクアジサイ。魂はもうとっくに抜け出てしまったのかもしれないが、ドライフラワーになり、化石のようになっても、後世まで生き続けたいと、望んでいるようにも思えてくる。
でも、これは私の想像でしかなく、言葉を持たないガクアジサイと私は、ずっと平行線で交わることはないだろう。ガクアジサイの意思は、ずっとわからないままだ。
なので、勝手に朽ち落ちていくなら、それもよし、
残っていたいならそれもよしと、
ただ静かに見守ることにした。
生きることの意味や、死の意味を
いつまでも、あれこれ考え続けるのは勝手だが、
私たちが生きていられる時間は限られているので、
考えてばかりで、時間を無駄にしてしまっては本末転倒だ。
だから、すべてをわかろうとしなくてもいいし、
わからないままにしておいてもいいのだ、
ということを、私たちは覚えておく必要があるだろう。
それが、健やかに生きるために許された、知恵のひとつなのだと。
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