自分の子どもの頃を思いだすと、悔しいことや納得がいかない
ことがあると、近所の目も気にせず路上でワンワン泣き叫んでいた。
お店の前でジタンダを踏んで親を困らせることだってあったし、
どうしても譲れないことや嫌だと思ったことには、
小さいながらも体いっぱい、腹から声をふりしぼるようにして
必死で大人の一方的な主張に対して抵抗していたと思う。
それなのに、大人になるにつれそういったストレートな
感情表現は「大人げない」という言葉で一掃され、
怒るとか泣くとか叫ぶといったことは、いつの間にかみっともない
こととしてフタをされ、なかったことにされてしまうから不思議だ。
高ぶる感情を抑えて、理性的にふるまうことが
もはや当たり前のように思い込まされている現代の大人達。
私達は空気を読んで、いつも冷静沈着でいなければいけないのだろうか?
はなはだ疑問である。
福島第一原発の事故にまつわる、テレビのニュース番組で
連日のように繰り返し流れてくる「ただちに影響はありません」
という冷静沈着な大人のが語るあのフレーズ。
あれを聞かされるたびに、私はあまりの空々しさに背筋が寒くなるのだ。
こんなに放射能をばらまかれているのに、誰がそんなことを信じられるか。
国民をバカにするのもいい加減にしろ!という怒りもフツフツとわいてくる。
そんな中、私がまだ希望を持てたのがネット上などで活躍していた
原子力の研究者やチェルノブイリの原発事故を経験した医師など
による生身の体から出た人間味のある言葉の数々だった。
彼らは学者的立場から理論的に冷静に、原発事故の詳細を
一般市民の目線までさがってわかりやすく説明するのはもちろん、
政府や報道関係者の間違った情報公開のあり方や
誤解をまねく表現に対して、恐れず真っ向から異を唱えていた。
それだけではなく「憤りを感じる」「こんなバカげたことがあってはならない」
「子どもたちがかわいそう」だと、自分の個人的な感情を抑え込まずに、
きちんと言葉にして表現してくれたのだ。
先日目にした元原発技術者の菊地洋一さんが浜岡原発の
即時停止を必死の思いで求める言葉にも胸をうたれた。
私は直下型地震でこれから起こりうる、原発事故の恐ろしさに
氷つくと同時に、とてもじゃないけれど冷静な心ではいられなかった。
なんとかしたいとジタンダを踏み、泣き叫びたい気持ちになった。
人の命にかかわることや、一歩も譲れない大事な場面では、
やはり感情表現は避けては通れないと思う。
それをずっと面倒くさがってずっとクールに避け続けてきたことが、
今という現実にツケになって目の前にあふれているのではないだろうか?
大人はもうどこにも逃げられない。
専門的なことはわからなくても、そんなに問題じゃないと思う。
嫌なことは嫌だと言い、怖いことは怖いと言い、おかしいことはおかしいと言う。
理論的にうまく理由を説明できなくてもいいから、
まず直感的にどう思うか、どう感じるか?
それを一人ひとりが瞬時に自分の言葉で堂々と表現していかないと、
もう間に合わないのだ。いろんな意見があっていいと思うし、
誰かの言葉を否定している暇もない。
とにかく「冷静沈着=思考停止」になってはいけないのは確かだろう。
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