2010年12月26日日曜日

確実に増えている心の飢餓人口。

不景気な世の中と言われているが、とりあえず住む家はあるし、
着る服もあるし、食べるものがなくて死ぬ人はほとんどいない・・・
大くくりで見れば、私達が住む日本は平和で恵まれた国なのだろう。


クリスマスや忘年会シーズンで浮かれムードな街を
歩いていて、私はそんなことを考えていた。


中途半端に恵まれている私達は、その生ぬるさゆえに
心が冷え切っていることに、なかなか気づけないのかもしれない。
お金を払えば・・・簡単に欲しい物が手に入り、喜びを得られる。
お金を払えば・・・簡単に食べたい物が手に入り、満腹感を得られる。


でも、それは一瞬の快楽のようなもので、後に残る余韻は
手応えや、満足感とは程遠い、虚しさではないだろうか。


目には見えないが、心の飢餓人口は確実に増えているように思うのだ。


本当にうれしいことや、感動したことがあった時、
「胸がいっぱいで、言葉にできない」とか、
「胸がいっぱいで、食べられない」という表現を
自然と使うように、心の飢餓感がない深い幸せを味わった時、
人はようやく“何もいらない境地”に至るのかもしれない。



では、心の飢餓感はどうやったら満たすことができるのだろうか?
私の場合は、日々取り交わされる“小さな贈り物”が
心を潤す重要な役割を果たしていると感じている。


それは、食べ物のちょっとしたお裾分けだったり、
私のことを思いやる一通の手紙だったり、
友人からの励ましの言葉や褒め言葉だったり、
偶然隣り合わせた人からの微笑みだったり、
店員さんとの心和む会話だったりする。
他の人の目から見れば、とても些細なものかもしれない。
でも、そこには共通して“心が通い合う小さなやりとり”があるのだ。


一番強烈に、私の心を鷲づかみするのは、小さな子供から
もらう手紙だろう。そこには、力いっぱい書かれた文字や
絵があり、わき目を振らずに集中してこめられた純粋な
思いがダイレクトに感じられて、いつも感動してしまう。

小さくとも心洗われる、純粋な贈り物をもらった時、
フツフツと湧き上がる喜びと共に、私もまた誰かに
贈り物をしてちょっとでも楽しませたいなと思うのだ。
これは尽きることのない、うれしくて楽しい悩みかもしれない。


私の好きな映画の一つに、小津安二郎の「東京物語」がある。
原節子という小津映画に欠かせない看板女優が出ているのだが、
その原節子の発する気持ちのよい挨拶と美しい所作には、
毎回ハッとさせられるものがある。

“日本語ってこんなに美しいものだったのか!”という新鮮な驚きと、
「ありがとう」「さようなら」などの挨拶さえも、
相手の目を見ながら心をこめて、丁寧に伝えるだけで、
“キラキラ輝くような贈り物”になるんだ、
ということを思い出させてくれる。