2010年12月27日月曜日

「幸循環」にまつわる連続ツイートまとめ

昨夜アップしたことのは山房のブログエッセーは、「心の飢餓感」と
「贈り物」の話がテーマでしたが、ちょうど、桐島かれんさんの
子供の頃のクリスマスについての素敵なエッセーを見つけたので、
ちょっとここでご紹介しますね。


   いつも働きづめだった母がクリスマスとなると家に向き直って
   大きなクリスマスツリーをオリジナルなオーナメントで華やかに
   飾りつけ、(中略)ツリーの下にはプレゼントの山を築いてくれました。
   当時はすごく貧乏な母子家庭だったと聞かされても信じられないほど、
   それは豪奢な光景だったのです。

   クリスマスプレゼントも日用必需品ばかりでしたが、靴下一足、
   鉛筆一本でもきれいな紙でいちいち包んで一言添えるのが母の
   流儀だったので、数えきれないほどのプレゼントが大きな山になるのです。

   クリスマスの朝に「かかれっ」とばかりその山に突進し、自分あての
   プレゼントを見つけ出しては包み紙をむしり取って歓声をあげる、
   あの喜びは忘れられません。だから母となった私も、クリスマスだけは
   手抜きはしない、お金よりも手をかけようと決意しています。
  (「手作りのある暮し」文化出版局 桐島かれんエッセーより)


「幸循環」という造語をオリジナルで作ってみたのだが、桐島かれんさんの
子供の頃のうれしかったクリスマスの記憶は、時を超えて子供達に受け
継がれて、また次の世代にもバトンタッチされていくのだと思う。

「幸循環」は、家族とか血の繋がりのある人だけじゃなくて、友達や恋人、
偶然で道でで出逢ったような人とも、バトンを渡すことができると思う。
そのためには、開かれた心が大事だし、開かれた環境に身を置かなくちゃ
ダメだと思うけど。


人を喜ばせたり、うれしい気持ちにさせたいというのは、人間の原始的な
欲求なのかもしれない。そこにはマニュアルは必要なくて、難しいこと
抜きで、自分も楽しくて、相手も楽しくなる方法をいろいろ試してみる
しかない。失敗したって思いは伝わるしね。

だから私は一方的に「尽くす」という関係は、その人のエゴでしかないし、
犠牲的なことは長続きするもんじゃないと思っている。友達も、恋人も、
仕事もそう。「相手を満たし、自分も満たされる」そんな関係を目指したいね。

「私がこんなに愛しているのに、あなたはこれだけしか愛してくれない」
みたいな近視眼的な満たし方もやめておいたほうがいい。自分がかけた
愛情とかエネルギーは、巡り巡って、自分に返ってくるから大丈夫と、
どっしり構えておけばいい。


なぜかTwitterでホンネを語る夜。
恥ずかしいので、この辺でお開きにします。ではまたね!